ぽぷの備忘録的ブログ

ただ思ったことを書き連ねるページ。

ひげよ、さらばを観に行った話

どうも、ぽぷです。

 

 

裕翔くんの舞台、「ひげよ、さらば」を観劇してきました。

 

 

 

とりあえず全公演応募して当たったのはド平日の1公演だけでしたが、休みを問答無用で勝ち取り、はやる気持ちを抑えつつ渋谷に繰り出しました。(書いている本人は渋谷の街が怖いので1人で歩いていてとても不安でした)

 

 

 

 

この物語の解像度を高くしたいので観終わってすぐ書き始めています。構成がぐちゃぐちゃですが、共有させてもらえると幸いです。

 

 

 

 

 

 

以下、がっつりネタバレなのでご注意ください

 

 

 

 

 

 

 

観た感想として一番に挙げられるのは、果たして私が観た物語は猫たちの物語なのか、人間の物語だったのか…ということです。猫たちの社会が舞台となっていますが、人間社会をそのまま切り取ったかのような、妙なリアリティがありました。

 

 

 

あらすじとしては、ある日ナナツカマツカの丘に、記憶喪失の猫ヨゴロウザが、片目と呼ばれる猫に拾われ、連れられてきます。このナナツカマツカは犬たちの侵略の脅威が迫っていますが、猫たちはその性質上団体行動が出来ず危機を迎えていました。この危機を乗り越えるためには猫たちをまとめるリーダーが必要だとなり、そこにヨゴロウザが片目によって推薦されます。名前からして飼い猫だったであろうヨゴロウザは、野良猫たちから相手にされず孤独になっていきますが、そこへ犬たちの群れのナンバー2であるナキワスレがやってきて事態は一変します。ナナツカマツカを守るために、そしてみんなにリーダーだと認められて自分の居場所を見つけたいヨゴロウザは、単身で犬のリーダーに会いに行き…

 

 

というのが公式HPに載っている大筋です。でもこれは正直1幕までの内容で、2幕で衝撃の事実と展開を迎えます。なぜヨゴロウザは記憶喪失なのか、なぜ片目はヨゴロウザを拾い、リーダーにしようとしたのか…他にも様々な猫が登場しますが、それぞれの抱えているものや葛藤が描かれていきます。

 

 

 

この物語は猫たちを主人公とした児童文学ですが、内容は人間たちの物語そのものです。そして児童文学とは思えないほど深い。多分子供の頃の私には理解できないと思う笑

 

 

 

 

 

一番刺さったセリフは「本当の正しさを、本当に知っている人はいない」です。

 

 

 

猫たちは誰がリーダーになるのか、誰が犬たちに対抗できるリーダーに相応しい器なのかで争いますが、それは黒ひげのような力でも、学者猫のような知識でも、オトシダネのような血筋でも、犬の群れから帰ってきたヨゴロウザの経験でもありません。絶対的に正しい人なんていないんです。だから誰が1人が頂点に君臨して統率する方法は上手くいかないのです。誰かが絶対的に偉いなんて、そんなこと決められないんです。ただ一つ言えるのは、どのように犬たちの脅威に立ち向かうか、どのように生きていくのかをそれぞれが覚悟を持って決めなければならないということ。誰か1人のリーダー性、カリスマ性にすがって服従して生きていくことは猫の性分からして無理。これは猫だけに当てはまる話ではなくて、私たち人間にだって言える話です。それぞれがそれぞれの考えをしっかりと持ち、それを曲げないように必死に生きていく必要があるんです。

 

 

 

 

とまあ、ここまでは予想できるというか、それはそうだねと納得がいくのですが、この後の展開が他にはないものでまた衝撃でした。

 

 

 

 

猫たちは結局リーダーを決めずに、それぞれがそれぞれの能力を活かし食糧調達や情報収集を行い集団行動をしていきます。そうして犬たちの襲撃に備えたのです。しかし犬たちはなかなか襲撃して来ず、だんだんと猫たちは平和ボケしていきます。食料にも寝床にも困らないこの暮らしやすい生活がいつまでも送れるという、その安心感と充足感で満たされていきます。

 

 

そんな平和ボケしている猫たちに、ついに犬たちが襲ってきます。あんなに役割を決めていたのに防衛班は初動が遅れ、あっという間に犬たちに囲まれてしまいます。防衛班は何をやっているのかと、他の猫たちは非難を浴びせます。防衛班は「こんなに大勢で来られるとは思わなかった」と弱腰になり、まるでその機能を果たしません。

 

 

…うーん、何だか現代の社会そのものだと思ってしまいました。会社にせよ国にせよ、これだけ準備してます、準備は万全ですーと言っておきながらその対策は甘くて、有事が起きると結局何も出来ず、あれだけ守ると言っていた私たちの生活が脅かされるんです。現代の日本は大戦を越えてすっかり平和になっていますが、そんな平和ボケしている中での準備って、一体何なのでしょうか。もちろん平和なのは良いことですか、本当の意味の平和って、何なんだろうとか考えちゃいましたね。やっぱり有事が起こっても、対処できなくても、せめて対応できるように覚悟を持っておくことが必要なのかもしれません。

 

 

 

話は戻って、何とか社の上に逃げた猫たちですが、犬たちが下で待ち構えているのを見てもう無理だと感じます。しかしそこに姿が見えなくなっていた片目が現れ、社に火をつけます。1人だけ犠牲になろうとする片目ですが、ヨゴロウザは火の中を掻き分け助け出そうとします。

 

 

片目はすでに生きることを諦めていて、ヨゴロウザが助けようと近づいてきたところに「お前は俺の夢だった。一緒に死んでくれ」と頼みます。そこでヨゴロウザの記憶がフラッシュバックします。

 

 

ヨゴロウザは以前独り身のおばあさんに飼われていましたが、そのおばあさんが生活が苦しくなり家に火をつけ自殺しようとしたところを、命からがら逃げてきたのでした。その時もおばあさんはヨゴロウザに「私の愛よ、一緒に死んでくれ」と頼んでいます。

 

 

元々飼い猫でおばあさんの所有物として生きていたヨゴロウザでしたが、そんな自分は、自分の人生は、誰かの愛でも、誰かの夢でもなく自分自身のものだと気づき、そんなことに気づかせてくれた片目を救い出します。

 

 

 

何とか燃えた社から逃げ出した猫たちは、その道中ナキワスレと出くわします。犬たちも何匹も焼け死んでいて、犬たちのリーダーであるタレミミは撤退を命じていましたが、動物は争うものという考えを持つナキワスレは逃げ出すことが許せず、タレミミを殺していました。その上でヨゴロウザにもう一度戦いを挑みますが、猫たちは誰かに屈服はせず、住みやすかったナナツカマツカを捨て、二本足(人間)の暮らす街へ潜んでいくことを覚悟します。それが猫の生き方であると。

 

 

 

犬たちとの戦いを経て、一人一人が覚悟を持って生きることを選んだわけです。そうして猫たちは街に散っていくのでした。

 

 

 

最後の場面、ヨゴロウザは名前を捨てることを決意します。おばあさんにつけてもらった名前ではなく、他の猫たちがそうであるように、自分自身を表現する名前にすると。

 

 

 

火の中を片目を担いで逃げたヨゴロウザは、ひげが焦げてなくなっていました。だから名前はヒゲナシとか?と冗談めいて言って、片目と笑い合って終わりを迎えます。

 

 

猫にとってひげは方向感覚をつかむための重要なものですが、そのひげを無くしてまで、自分の意志に沿って生きる大切さを教えてくれた片目を救ったことは、ヨゴロウザの成長を表していると思います。タイトルの「ひげよ、さらば」はヨゴロウザの成長を表す象徴と言えるわけです。

 

 

 

 

こんな綺麗なタイトル回収ありますか?!舞台見終わってすっきりした気持ちになりましたよ。

 

 

 

 

 

そしてこの作品が猫たちが主役であることを感じさせてくれたのは紛れもなく役者さんたちの演技です。

 

 

内容は人間たちの物語になっているので、猫耳など観てすぐ分かる猫らしさというのは特にありません。しっぽはみんな付けていましたが、感情をコミカルに描き出すのに使う一種の小道具のような感じで、猫らしさを表現しているわけではありませんでした。

 

 

それでも猫のように見えたのは本物の猫ばりの動きがあったからです。低い構えや伸びをする姿勢などが本物の猫そっくりで、特に裕翔くんと柄本時生さんの猫らしい動きは凄かったです。何故あの姿勢であんなに軽やかに動けるんだ…

 

 

猫らしさを表現する動きと、通常の二本足で立って演技する箇所が絶妙なバランスで組まれていて、人間のようなシーンのあとに猫の動きをすることで、これは猫たちの物語であることを思い出させてくれます。

 

 

 

どうしても自担ばかり見てしまったのでその感想ですが、裕翔くんのヨゴロウザの解像度がとても高かったのも印象的です。前半での記憶喪失で自信がない時の雰囲気と、後半の犬の群れから帰ってきた後の雰囲気はまるで違っていて、さらにラストのシーンでの決意の表れも力強いものが感じられました。あんなに体が大きく、この物語の主人公であるのに、ナキワスレが来た時の萎縮した雰囲気は、犬の脅威に怯えて小さくなっている猫の姿が具体的に感じられました。(ちょうどこのシーンは上手の端っこにいて、自分の目の前にいたのでガン見しちゃいましたね…)

 

 

裕翔くんに限らず、他の猫たちを演じる役者さんたちもそれぞれの猫への解像度が高く、思わず感情移入してしまうところもありました。黒ひげは強いから威張っているのではなく、強がっていることで自分の存在意義を見出しているのだとか、学者猫はたった1匹しか産めなかった自分が劣っていることを認めたくなくて子供を遠ざけてしまったのだとか、複雑な感情の移り変わりも繊細に感じられたのは、演技にそれが込められていたからだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

よくよく思い返せば、裕翔くんの主演舞台は今のところコンプリートしているわけですが、どれも現代についてだったり自分の生き方について考えさせられることが多くて、とても自分の学びに繋がっていると思います。毎回ギリギリのところを当ててる私の名義に感謝です。(そして毎回席が良い。今回も6列目くらいでめちゃくちゃ見やすかった)

 

 

 

 

 

ちなみにパンフレットはピンク髪の名残がある裕翔くんのポートレートがめちゃ多くて助かりました。

 

 

 

 

 

 

 

見ているだけでも体力面が心配になってしまうほどハードな舞台だと思いますが、誰も怪我なく最後まで走り抜けられることを願っています。良い経験をありがとうございました!