ぽぷの備忘録的ブログ

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WENDY&PETER PANを見にいった話

どうも、ぽぷです。

 

どうしても行きたくて鬼のように申し込んだ裕翔くんの主演舞台、『ウェンディ&ピーターパン』が無事に当たりまして見に行ってきました。

 

 

これを見るまで割と精神的に辛い日々が続いていたのでめちゃくちゃ楽しみしてました。どこかで積んだ徳が返ってきたのか、あのオーチャードホールで10列目を引き当てるというミラクルを起こし、ドキドキワクワクしながら久しぶりに渋谷へと向かいました。

 

 

 

薄々感づいてはいましたが、とんでもなく豪華な舞台で、とんでもなく最高でした。特に、私のような若者で、さらに女性だととても考えさせられるものが多い舞台でした。

 

 

 

 

 

(注意!以下、がっつりネタバレです!)

(注意!セリフはかなりニュアンスで書いてます!)

 

 

 

 

この物語において、登場人物たちがネバーランドでの冒険を通してそれぞれ抱えるコンプレックスを解消するということが重要視されて描かれていると思います。

 

 

 

ストーリーはいわゆるディズニー映画の『ピーターパン』とは全く違って、ピーターパンよりウェンディが主役です。男の子たちと同じ遊びがしたいのに入れてもらえない、誰かの世話を見ることを強制されるという典型的で、かつなかなか日本社会からも無くならない女性の境遇を、勇敢な気持ちを持って打ち破っていくウェンディの姿はとても胸に刺さるものがありました。だからこそ、黒木華ちゃんの演技が凄すぎて引き込まれました。年頃の女の子だけど長女として自分がしっかりしなくちゃいけない、でもピーターパンのことを信じたいという複雑な気持ちの揺れ方がとても繊細に表現されていて、とにかく最高でした。

 

 

ピーターパンはウェンディを一目見た時に「可愛いね」とナンパまがいのことを言いますが、なぜ可愛いかというと『静かな顔が可愛いから』なんです。そしてウェンディが泣きじゃくると「泣き止んでくれよ。泣き止んでくれないと君の静かな顔が可愛くなくなっちゃう。うるさい顔になっちゃう」と言います。つまり男の人にとって女の人は自分の考えや感情を表に出さず、静かにしているのが好ましいのです。このような弱い存在として見られがちだった女性のイメージを、ウェンディは180度ひっくり返します。特に最後の場面でティンクとタイガー・リリーとチームを結成して剣を持って海賊に挑む場面はまさしく今の時代の象徴という感じがします。脚本は女性の方が書いていて、当初から女性を活躍させたい思いがあったらしいので、現代を生きる女性としてはとても勇気づけられた場面でした。この舞台を通してウェンディは“女性”というコンプレックスを克服することが出来たと思います。

 

 

またピーターパンはトムの居場所が空の星だということを教え、ウェンディに「家族みんなが1秒でもいいから幸せだと感じなければトムには会えない」と言います。そしてウェンディに楽しいことを思い浮かべるように言い、それを受けウェンディは自分が勇敢な女の子であることを言い聞かせます。ネバーランドでは心の底から楽しいと思わないと飛ぶことが出来ないのですが、ここでウェンディは初めて自力で飛ぶことが出来ます。自由に飛び回ったあと一つの流れ星が流れ、それが後にトムであったことが再会を通して分かります。このことから、家族みんながずっと不幸だ、悲しいと感じ続けていたのはウェンディ張本人であり、それはトムがいなくなったのはトムのボタンを私が縫ってやらなかったからと思い込んでいたり、ロスト・ボーイたちが望むように“良いお母さん”である必要があると思っていたりと自分が女性であることを理由に自分自身を押さえつけていたからということになります。それがようやく飛べた、つまり自分のなりたい姿になることが出来たということであり、このことからも女性が自分らしく生きていく時代であることを伝えていると思います。

 

 

 

 

そのウェンディと対照的なのがピーターパンなんですけど、割とわがままで嫌な部分も垣間見えるディズニー映画の彼とは違い、どこか無理やり遊んでいるのが冒頭から感じられます。彼が永遠の少年であり続ける理由は、現実の家族へのコンプレックスがあって、悲しいことを忘れたいがためにいつまでも遊んでいるんです。でも「悲しいことを忘れたい、けど忘れ方を忘れちゃったというか…」というセリフにあるようにかなり心に葛藤がある、思春期の少年です。そのような微妙に見栄を張って無理をしているピーターパンを裕翔くんはしっかり最初から表現していて、特にウェンディに自分の家族の話をする場面と、帰る決意をしたウェンディを見送る場面の表情にとても胸を締め付けられました。

 

 

ピーターパンはフック船長との真剣での戦いも、ロスト・ボーイたちと遊ぶ時も全て『ごっこ遊び』にするんです。でもウェンディと2人で語り合う場面では、ウェンディが『みんなのお母さん』になることを嫌がっていることを知った上で「君がお母さんで、僕がいいお父さん役になって、子供たちの面倒を見るよ」と言うんです。この後に及んでもウェンディと『家族ごっこ』をすることにこだわっている辺り、ピーターパンはやはり本当の家族ではなく子供であることをとった訳です。永遠に遊んでいられるネバーランドで、ウェンディたちと一緒に過ごしたいと思っているのです。しかしウェンディはピーターパンに挨拶をしないうちに帰ってしまいます。だからこそピーターパンがウェンディたちの飛んでいる姿を見送る表情がとても切なく、それでも忘れてほしくないからウェンディのポケットに“キス”である指抜きを入れたんだと思います。(叶わなかった恋だけど、めっちゃ良いな…これ…)

 

 

ピーターパンは家族に大きなコンプレックスを抱えていて、だからこそ永遠に少年であり、ロスト・ボーイたちをネバーランドへ連れてきて一生遊ぶということをしています。彼にとっては一緒に成長を見守ってくれる家族よりも、自分が思い通りに遊んで悲しい思いをしなくて済むネバーランドの方が良い訳で、だから空で悲しい思いをしてようやくネバーランドに落ちてきたロスト・ボーイたちを一生遊ばせてあげています。そんな彼が一目惚れした女の子がウェンディだったのも、彼がコンプレックスを乗り越えるためには必然だったのかもしれません。

 

 

ピーターパンが家族というコンプレックスを乗り越えたのが最後の場面です。無事に家に帰ったウェンディたちを窓の外からそっと見守っているんです。そしてダーリング家が幸せな家族へと戻ったことを見届けます。ウェンディたちをネバーランドに連れ戻すなどはせず、一度トラウマとなってしまった窓の外から家族を見るという行為を最後にしたということは、子供として永遠に遊んでいられるネバーランドに住みながらも、遊べなくなった大人たちを含めた家族の形をしっかりと見て自分の中で整理することが出来たということになると思います。これこそピーターパン・シンドロームを彼自身が乗り越えるために一歩踏み出したということだと思います。

 

 

 

そしてもう一つ肝となる人物がフック船長です。これは原作とほぼ変わらない設定でチクタクワニや時計を極度に怖がっていますが、何故それほど“時間”を嫌がるのか、というところが重要です。ネバーランドにおいてフック船長は残された時間が短い側の人間です。とにかくフック船長は時間を失うことが怖く、永遠の少年であるピーターパンやまだまだ子供であるロスト・ボーイたちを敵視しています。でも実際にはピーターパンから時間を奪ったところでどうすれば良いのかは分かっていません。この時間に追われて時間が無くなることを、はっきりした理由がなくとも恐れているというところが現代の私たちにつながります。

 

 

ティンクがフック船長に「あなたにピーターパンは殺せない」と言うシーンが強烈に印象に残っています。ピーターパンの永遠の時間が欲しいフック船長の心の中には、ピーターパンを殺すとこれまでの時間は何だったのか、でも自分の腕を切り落とした憎いピーターパンを殺したいという相反する迷いがあるということをティンクは見抜いていて、いくら腕を切り落とされたからといって、フック船長にとって時間の象徴であるピーターパンを殺してしまうことは出来ない、と言っているのだと思います。結局その場面ではフック船長は無防備に眠っているピーターパンを殺すことが出来ず、ティンクに心を見抜かれて逃げ帰ってしまいます。

 

 

しかし最後の場面、ウェンディとピーターパンに追い詰められたフック船長は自らチクタクワニのいる海に飛び込むことを決意します。これは時間に追われる必要はない、今までピーターパンと戦い続けた時間も有意義だったとフック船長が心の底から思えたからだと思います。自ら海に飛び込む時のフック船長は微笑んでいました。あまりにもあっさりと戦いに蹴りをつけたのでピーターパンとウェンディは呆気に取られていましたが、それはまだ時間の大切さに気づいていない子供だからであって、それは見ている私たちにも両者の間のそのギャップが深く響きます。

 

 

そしてこの後舞台はダーリング家に戻り、妻が世間体ばかり気にする自分に愛想を尽かして出て行ってしまったと勘違いしておいおい泣くミスター・ダーリングの場面から始まります。そして妻が戻ってきたことを知り、今まで世間体を押し付けていた自分が悪かった、子供の面倒を見て家事をすることは妻の義務じゃない、と次々と考えを改めます。そして家族との時間を大切にしようと決意していて、早速みんなでスケートリンクに出かけて帰りには洒落たカフェでケーキを食べようと提案します。このフック船長とミスター・ダーリングは堤真一さんが一人二役で演じていて、だからこそフック船長とミスター・ダーリングという2人の『ロスト・ボーイ』が時間というコンプレックスを克服できたのだと思います。

 

 

 

 

ここまでつらつらと書いてきたように、ピーターパンが原作とはいえかなり内容は社会派です。大人の複雑な気持ち、そして社会の一員として生きなければいけなくなったことが分かる今だからこそ、この舞台は刺さります。

 

 

一番印象に残っている場面は、みんなのお母さんになることをやめトムを探しに出かけようとするウェンディをピーターパンが引き止める場面です。ここでミスター・ダーリングとミセス・ダーリングも一緒に登場し、違う時間軸ですが同じような場面が展開されます。ピーターパンがウェンディのバッグを引っ張って引き留めようとすると、それと同時にミスター・ダーリングも妻の手を取り「もうトムが死んでから1年経つんだ。世間からの目もあるし、一緒にいてくれ」と頼みます。それに対しミセス・ダーリングは「1年経ったから忘れろですって?」と反抗します。そしてウェンディもピーターパンの手を振り払います。ここで『みんなのお母さん』でいて欲しいピーターパンと、自分でトムを探したいというウェンディが、女性の役目を押し付けるミスター・ダーリングと自分の思うように振る舞いたいというミセス・ダーリングと重なります。やはりこの舞台で女性として在り方はかなり重要なポイントだと思います。

 

 

 

この舞台では性別、家族、時間という重要なキーワードが3つあるように思いますが、その他にもキャラクターから考えさせられることがあります。

 

 

例えばタイガー・リリーは海賊でもロスト・ボーイでもない、別の種類としてたった1人で戦い続けていますが、そんな彼女がウェンディたちと協力して海賊に立ち向かうところからは1人で抱え込まず、周りと協力することの大切さを感じます。

 

 

ウェンディから賢い海賊だと言われるマーティンは「おはなしが全て上手くいっているのは結末が分かっているからだ。まだ物語の半ばにいる僕たちは、どれが正しいのかなんて気にしないで自分の思ったように行動すれば良い。それが間違っていれば後から間違っていたことが分かるだろう?そうやって正しい答えを見つけるんだ」とウェンディに助言します。このことからはチャレンジすることの大切さが感じられます。

 

 

 

もちろん笑いどころもたくさんあります。特にティンクはかなりユーモラスなキャラクターです。劇中では数少ない女の子のキャラクターですがかなり性格は豪快で、ロスト・ボーイたちに怒鳴りつけたり、ちょっと乱暴な言葉遣いをしたりもします。自分の性格を包み隠さずありのままに生きているティンクはかなりキーパーソンで、これもまた現代の女性に通ずるものがあります。

 

 

そしてこの舞台の1番の見どころは何と言ってもフライングではないでしょうか。同時に5人が飛び、舞台上にプロジェクションマッピングで空が映し出される光景はこちらまで風を感じ飛んでいる気分になります。また本当に海賊船が出てきた時もその迫力にびっくりしましたし、砲台から発射された爆弾が客席で跳ね返り舞台の照明に激突、舞台のブレーカーが落ちてしまうなんていうメタ演出もありました。子供部屋はかなり作り込まれていますし、舞台美術も見どころです。

 

 

最後カーテンコールの際にキャストの皆さんが踊るのですが、裕翔くんのように笑顔で踊る人と、堤さんや華ちゃんのようにかなり頑張ってステップを踏んでいる人といて、それがとても微笑ましく、それに観客が手拍子として参加するとセッションしているようで、かなり楽しいです。音楽も壮大なものが多く、大きなホールで聴くので感動も倍増です。

 

 

 

 

他にも良かったところを挙げるとキリがないのでこの辺にしておきますが、とにかく最高な舞台でした。華ちゃんをはじめかなり子供たちが大騒ぎするシーンが多いので、千穐楽まで喉を壊さず、キャストもスタッフも無事に走り抜けられるよう願っています。素敵な舞台をありがとうございました!